どうも、だらだらです。
最近、大原扁理 著『20代で隠居』読んだ。
その著書の中では、彼が高校卒業後に3年ほど引きこもりになった話が出てくる。
彼は高校卒業後に進学も就職もしなかった。
最低限の生活費をバイトで稼いで、それ以外は引きこもって読書をしていたらしい。
彼はこの時期のことを「人生の大洗濯」と呼んでおり、この言葉が僕の心にすごく刺さった。
なぜなら、このセミリタイア生活が「人生の大洗濯」のように思えたからだ。
今回はこのテーマで私見を記事にしていく。
やりたいことが分からなくなった🙄
僕がセミリタイアしたのは、やりたいことが分からなくなったからだ。
それまでの僕は、人生の目標が比較的明確だった。
例えば、20代半ばまでは仕事を続けることが人生の目的だった。
社会人になって親に養われるのはツラく、少しでも早く自立したかったのだ。
20代後半になると仕事が安定してきて、自活することができるようになった。
それからは経済的安定のために、老後資金を貯めることが僕の目標になった。
その間は仕事と節約を頑張って積立資金を作り、それをインデックスファンドに投資し続けた。
その結果、35歳で2000万円近くの資産を作れたわけだ。
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このように、リタイア前の僕は人生の目的が明確だった。
目的が決まっていれば、計画を立ててそれを実行するだけだ。
迷うことは何もない。
そういう点ではすごく楽な人生だったと思う。
でも資産を作った後は、人生の目標を見出せなくなった。
はっきり言って、やりたいことが何もない。
また、金銭的に安定したおかげで、すべき課題もなくなってしまった。
(最低限の生活費を稼ぐ必要はあるけどね👷♂️)
そのせいで、人生の向かうべき方向が分からなくなってしまったのだ。
実際、資金が貯め終わってからの僕は迷走した。
キャリアアップと称して最高だった職場を辞め、新しい会社に馴染めず半年で退職した。
その後も失業保険でゆっくりするとか言いながら、焦って再就職して失敗している。
これらの行動は人生の目的を見失った結果だと思う。
結局、何をしたらいいか分からず焦ってしまい、意味不明な行動を取ってしまったわけだ。
この手痛い失敗の結果、自分を見直すためにセミリタイアしたわけだ。
そう言えば、大原さんも「人生の大洗濯」をしたのは、やりたいことが見つからなかったからだ。
そして、その行動がのちのち良い影響を与えている。
そう考えると、今の僕も立ち止まって、「人生の大洗濯」をすべき時期なのかもしれない。
自分と向き合ってこなかったなぁ😅
「人生の大洗濯」とを見た時、自分と向き合って来なかったなぁと感じた。
さっきの項で今までの人生目標を書いてきたけど、どの目標も生活面での目標だ。
内面的な目標は一つもない。
生活面の目標は、社会やお金に向き合うことが多い。
仕事の継続では職場の立ち回りが大きな課題になるし、資産形成ではお金の管理方法が課題となる。
要するに、自分と向き合う要素が1つもないわけだ。
僕が資産形成後に目標を見出せなかったのは、目標のベクトルが変わってしまったからだ。
今までは仕事やお金のことだけを考えていれば良かった。
仕事やお金は数値化しやすいため、目標や計画を立てやすい。
僕は明確な問題を考えるのは得意だから、生活面の問題には普通に向き合えたわけだ。
でも、自分と向き合うことは全然違う。
自分はお金のように数値化できないし、そもそも認識することすら難しい。
要するに、正解のない曖昧な問題と向き合う必要があるわけだ。
僕はASD傾向が強いため、曖昧なことを上手く理解できない。
昔から暗黙の了解を理解したり、周りの空気を読むのが苦手だったもん。
自分と向き合うことの難易度は、それらの理解より圧倒的に難しい。
暗黙の了解は周りの行動を真似することで、その場をしのぐことができる。
でも、自分との向き合いにはロールモデルがないから、ゼロベースで考えないといけない。
だからこそ、自分に向き合うことは難しいわけだ。
正直、今も自分と向き合うようにしているけど、全然進んでいる感じがしない。
そもそも、自分と向き合う定義すら、全くわからない状況だ。
でも、今の僕には分かりやすい人生目標はないから、自分で人生目標を見つけなくてはいけない。
だから、この難しい作業を避けることはできないのだ。
まとめ😎
今回は「人生の大洗濯」と言う言葉をベースに色々考えてみた。
この言葉で色々考えると、健常者がすごく羨ましくなる。
健常者は社会に適合しやすいから、セミリタイアを考える必要性は少ない。
実際、僕がセミリタイアしたのは正社員生活に挫折したからだ。
もし、正社員でいられたなら、セミリタイアはしなかったと思う。
そして、正社員は会社の考え方に沿って行動すればいいから、当然迷うことは少なくなる。
少なくとも、僕みたいに自分と向き合う必要はないだろう。
この苦行をしなくていいから、健常者が羨ましく感じるのだ。
とは言え、自分と向き合うことは夏休みの宿題と同じだとも感じる。
健常者も定年になれば仕事を辞めるわけで、結局はこの問題に向き合う必要がある。
要するに、早いか遅いかだけの問題なわけだ。
そう考えると、早いうちから自分に向き合うのも悪くない気がしてきた。
そんなことを考えながら、意味不明な自分と言う物体と対峙していく。
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